タナゴコロ

よこーさん!!キスマイ。初心者。@Ttk_d

タテとホコ (1)担当とはなんぞや

本格的にキスマイにはまって約1年ほど。過去のラジオを聞きあさるところから始まった私の活動も、ツイッターを始めたところから一気に情報量が増えた気がする。先日友人とカラオケに行き、舞祭組への認識の違いにカルチャーショックを受けたことから、自分がかなりジャニオタ脳になってきていることを私はやっと自覚した。そこで今回は、ジャニーズどころかアイドルファン素人出身のファンから見たジャニオタ界の印象について残しておきたい。

はじめは1つの記事にしようと思っていたのだが、思いのほか文量が多くなったのでシリーズ化しようと思う。今回はズバリ「担当」について。

 

(1)担当とはなんぞや

まずツイッタ―で目に入ったのは「担当」の文字。自己紹介、ツイート、たびたび出てくる。ほどなくAKBの「推し」という言葉とほぼ同義と捉えたのだが、さらに応用として自担、同担、事務所担、jr.担、箱押し、かけもち、担降り…。うーん、そんなに担当って重要なポイントなのか。当初、キスマイの誰が好き、というわけではなく彼らの空気感、お互い信頼してるからこその気の遣わなさ、男子高生の心のままオトナになってしまったような無邪気さとしょーもないおふざけ、と見せかけつつふとした時にはきちんと大人な気遣いも垣間見せ、その上それぞれ心の底には上を目指す・仲間を想う熱い思いも抱いている、そんな彼らの関係性と雰囲気に惹かれたわたしにとっては担当、という概念は謎であった。同担拒否/歓迎、かけもち拒否/理解、そこにこだわりがあるならまずその価値観を共有できる人と仲良くなりたい、という気持ちは分からんではないけど、オブラートをこよなく愛する日本人が、極端に言うならば価値観の合う人としか絡みませんよという意思表示をこんなに明確に表すのもネットならではだなと。や、考え方は人それぞれだし、仲良くなってからそれで仲たがいするより合理的だけども。

ものすごーく個人的な見解として、「担当」という制度や概念は、新たなアイデンティティの創設・もしくは自覚のような面も持ち合わせているのではないか、と感じている。白熱教室で有名なサンデルに代表されるコミュニタリアン的に考えるならば、コミュニティに属してはじめて集団の中での自分の立ち位置が明確になり、アイデンティティが見出せるという。同様に、担当の存在により、ジャニオタの中でも△△というグループのファンで、さらに〇〇担、という自らの立ち位置が明確になる。つまりはコミュニティ(ジャニオタ・△△グループファン・〇〇担)に属すことにより、自分もその「〇〇担」というアイデンティティを得る。それによって自分への権利義務感覚(応援しなきゃ、理解者でいなきゃ、こんな素敵な◯◯を買わずにはいられない、果ては売上貢献のために、売れるためには…etc)が発生したり、いわゆる「同担」という仲間意識(〇〇担同士なんだから、協力しよう!仲良くなろう!)が芽生えたり、他の人との立ち位置・距離感もなんとなく初期設定されたりする。自分の担当(アイドル)との関係性(仲間・友達・親しい・先輩・後輩など)によっては他のアイドルにも良い印象をもったり、他担のファンへの印象も誰の担当かで変わってきたり…と、いう場合だ。ファンは担当(アイドル)に似てくるともいうし、担当によってファン同士が似てくる時もある。もちろん人間同士のことなのでそれだけでは人との関係性は決まらないし、どこまで踏み込むか、どのようにジャニオタライフを楽しむかは個人次第だ。

実際わたしも横尾さんのいいショットやコメント、メンバーとの面白いトークの載っている雑誌を見るとこれは買わねば…!という衝動にかられる時がある。買いたい、欲しい、という気持ちに違いはないのだが、それが感覚としては「やばいこれ買わなきゃ」にナチュラルに変化しているのである。恐ろしい。横尾さんの引力たるや。

 

さらに「担降り」。これもジャニオタにとってはかなり核心に近いというか複雑なものらしく、捉え方も人それぞれ、でもみんなそれに対しての興味は多少なりとも抱いているように感じる。「担降りとは」「担当とは」そういったブログやコメントも定期的に見かける。これは自分がアイドルに何を求めているのか、どのような対象として見ているのか、つまり自分の中の「担当」の定義によって「担降り」の定義は変わる。「好き」にもいろいろあるし、現実の恋愛の仕方にも色々(友達感覚、一目ぼれ、束縛、一途、尽くす、楽しいならよし…)ある。それと似ている。そしてどのように捉えるにしろ多くのオタがこれに興味を持つのは、なんとなく後ろめたいというか申し訳ない気持ちがあるが、それとどう折り合い次へと進むかをみなが模索しているからな気がする。

自分が興味を持つまでは、ファンはある種恋愛や憧れと似たような感覚でアイドルを追っているものだと思っていた。もちろん、そのような感覚もあるにはあるのだろうけども、アイドルとは「恋焦がれるもの」というだけではなく、「応援したいもの」という価値観もあるということを知ったとき、なるほど担降りにどこか痛みが付きまとうようなのはそのせいもあるのかと妙に納得した。

今はまだ完璧でなくとも(逆に完璧だったとしても)、これからに期待させてくれるという点もアイドルの大きな魅力である。この人が好きだ、その上うっすらとでもまだ見ぬ将来に思いをよせ、期待していたとすれば。より強く惹かれ応援したい人ができてしまった時、そしてそちらを主に応援すると決めることは、たとえ元担が成長したことが要因のひとつを構成していたとしても、痛みを伴うだろうと想像するに硬くない。その上先に述べたようにすこしでも義務感、というか義理を感じていたら、もっと私たちの感覚に合うように言い直すならば情がわいていたら、それは痛くて当然である。

 

ジャニオタ(私の場合はキスマイ)熱が一人でテレビやラジオ、ライブDVDを見ていた時よりも格段にツイッターをやり始めてから加速したのは私だけだろうか。他の方のツイートで「あああここ見落としてたかわいい」という新たな発見だったり、「こっそりこんなことして遊んでる…!」「この二人の関係性はこうだから…」という新たな楽しみ方(コンビ・トリオ)の開拓・他の人の考察や妄想を楽しむなどなど、かなり世界が広がってしまったように思う。これこそが、コミュニティの力、つまりは同じ者(グループ・個人)を好むものが集結できる、「担当制」のなせる業なのかもしれない。